take-bow2010-12-13

狐狸庵先生。違いのわかる男。その昔、小説をよく読んでいた(文学青年?の)頃、遠藤周作はそう呼ばれていた。だから愛読したのも、エッセーやユーモアの多い小説で、遠藤文学の神髄に触れる機会はついぞ無かったのである。
その小生が、遠藤文学のド真ん中、キリスト教・信仰・神といった重いテーマに挑戦したのは、少しはキリスト教に対する理解が進んだからということもあった。だが、何よりも惹かれたのは、鎖国中に不法入国した神父達が「転び」それでも生きながらえたという事実を知ったからである。日本史を教える者として、ある程度の殉教や隠れキリシタンの知識は持っていても、実態に近い形の授業は出来ていないのが実状である。一時は数万人もの信者がいたとされるキリスト教徒が、いくら幕府の命令だからと言って綺麗さっぱりいなくなるにはそれなりの物語があるということを知ったからでもある。拷問でもなく、殉教でもなく、背教すなわち「転び」をテーマに持ってくるあたりが遠藤文学の凄いところだと思った。その上で、「転び」の論理や日本にキリスト教の神は根付かないとする視点は、キリシタンとして信仰を持ち続けた遠藤周作自身の自らへの問いかけであることは言うもまでもないだろう。主人公パードレのロドリゴは、幾多の苦しみにあっても「神の沈黙」に直面する。「転び」の後の「踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ」というイエスの言葉は、キリスト教の根本命題であるイエスによる「贖罪」を扱っている。テーマの重さに比例して重厚な文章は、私の慣れ親しんだ遠藤周作では無かったが、一気に読み終えられたのはこの名作に出会えた感動が小生を後押ししたのはいうまでもない。