日本のキリスト教

take-bow2007-03-14

新潮社から出ている『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』という写真入りの本を図書館で借りて読みました。遠藤周作氏といえば、小生には「狐狸庵先生」としてなじみ深いのですが、正直言って純文学系は読んでおりませんでした。氏がクリスチャンであることや代表作『沈黙』の存在は知っていたのですが、今まで触れずに来たのでした。
そんな中、この本で氏はキリシタンとしての聖地とも言える「長崎」各地を訪ね、キリスト教の面影を探していきます。小生も長崎市内や大村湾には行ったことがあったのですが、大浦・浦上の両天主堂くらいしかキリスト教を結びつけて見てこなかったのでした。戦国末期から江戸初期にかけて、長崎などでは人口の大部分をキリスト教徒が占めていたという認識が完全に欠落していました。日本のキリスト教については殉教、拷問による棄教、踏絵を行う「隠れキリシタン」という、薄いイメージだけで構成されていたように思います。「穴釣り」「転びバテレン」といった厳しさの中で彼らは棄教、さらに迫害者、「転んで」隠れキリシタンなどになっていったのです。殉教した者とそうでない者という二者択一ではなく、第三の道を探っていったのが日本人らしいともいえると思います。こういった知識をもって長崎の街を歩けば、もっと中味のある深い旅になったと今更ながら残念に思えました。先頃バチカンが「福者」に認定したのはあくまでも「強き者たち」であって、弱くて為政者の政策が変わるまで「隠れて」行くという人々は決して教団としては褒めないのかも知れません。しかし、これら全ての者に神は祝福するだろうことを知りました。