take-bow2007-03-17

彼と初めて会ったのは、正社員として勤めた塾の職員室だった。小生は教員採用試験に落ち、傷心のまま就職してしまった職場の仕事二日目だった。彼、D先生は明治大学大学院出の英米法の専門家だったが、その塾には英語か社会と言われて就職したのに国語に回された、と言って嘆いていた。小生も国語か社会と言われて、行ってみると算数の研修をさせられていて、二人とも初めからやる気を削がれていた。研修期間も一ヶ月と長くなったが、全く結果の伴わない二人はコンバートされるように、私が国語と社会、D先生が算数に配属された。本当にいい加減な塾だったが、彼の能力を見抜く力はあったということだろう。その後、小生はそんないい加減な塾に嫌気がさして、正社員を2年ほどで辞めてしまったが、彼はブツブツ文句を言いながらも正社員として勤め続けていた。強烈に自己主張する訳ではなく、それでいて嫌なことはイヤという意志の硬さも災いして、昇級なども遅れていたようだった。それでも彼は、その職場を続けていた。非常勤となった小生も週に何度か会う機会があり、いろいろなことを教わった。D先生は音楽の造詣が深く、クラシックを中心に民族音楽にも幅広い趣味をお持ちだった。D先生は小生の音楽の師匠にもなった。師匠はモノに対する執着もなく、CDも買って聞き込むと必ず中古屋に売り払い、そのお金でまた別のCDを購入するといった感じで、物欲とは無縁な人だった。それでもステレオやマンションなど環境に対するこだわりは人一倍であった。「子どもは嫌いなんだ」と言いながら、生徒にメチャメチャ慕われる不思議な魅力の算数教師だった。

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そんなD先生が先月末に亡くなられたという話を風の便りに知った。確か小生の一つ年上なので、まだまだ若い部類だ。ベタベタした関係を嫌われる方だし、便りのないのはよい便り=お元気なんだろう、とばかり思っていた。 本当に才能溢れる人だったのに、それを生かす場が与えられなかったという世の中の不条理に本当に怒りを覚える。

D先生、音楽でも聴きながら安らかにお休み下さい。           合掌