take-bow2011-02-13

2年前、小生は「歴史的な学問進化の最高点に今、我々は触れている」と宣言したが、この最高点の高みは凡人である小生にはあまりに厳しく、2巻までは何とか読み終えたものの、その後、最終第3巻を1年近く開きもしなかった。目の前に現れる卑近なモノに飛びつき、登頂目前にして長く戦線を離脱していたのだった。だが今年に入って、一念発起。再びより高みをめざして再登頂を試みた。最終巻は近代の幕開けと言うことで、やっと重力が登場する。曰く、「機械論は、物質の特異な性質や作用を「実体的形相」といった言葉で了解するスコラ学から、自然の物体間にはそれぞれに特有の「共感や反発」の関係が存在すると見なし磁力のような非感性的性質を「隠れた力」といって済ましている魔術思想にいたるまでの、それまでの自然観とは根本的には相容れない」(p.738)レベルへの到達が具体的な形で解き明かされていく。ギルバート→ケプラーニュートンという磁力・重力研究の流れに絡むように、デカルトやベーコンの合理論・経験論がもっていた実証的な限界性も説明され、たいへん興味深かった。近代思想史に於いて、これら演繹と帰納を統合するのはドイツ観念論のカントを待たねばならないのであるが、近代に突き進むヨーロッパ科学の世界ではニュートンの方法論がいち早くその萌芽を見ていたと言えそうだ。
1000ページ近い(あとがきまででp.947)大著を読み終え、資本論を読んだ時のごとく達成感はあった。しかし、小生にすべてを理解できている筈もなく(特にエピローグの数式群は全く無理であった)、その上、これまでの重力についての理解そのものが誤っていたことも今回、判明した(ケガの功名である)。
多くのことを学んだ読書となったが、やはり第1巻でも指摘していた点に触れざるを得ない。著者自身も「研究集団と没交渉でいるということは、ポジティブに考えれば、研究者集団の共通了解事項−パラダイム−にとらわれることなく、自由に発想できる位置にいるということでもある。それゆえ、プロの研究者が考えつかなかったような独自な見解を提起することもありうるであろう」と述べている。この言葉とその実践は、アカデミズムの存在理由すら疑問に感じざるを得ないほど、著者の提示した視点・切り口・総合性はトリビアリズムに冒されている全てのアカデミズム・大学への挑戦状となっている。まさに山本義隆氏は「明日のジョー」である。