take-bow2006-04-16

「山を想えば 人恋し
人を想えば 山恋し」(百瀬慎太郎)

その山に初めてお目にかかったのはいつだったか、定かではない。たぶんイヤと言うほど写真を見ているので、どれが実体験か分からなくなっているのであろう。初めて八ヶ岳に登った時に遠く北アルプスを眺め、弟のカメラの望遠レンズで見たのが肉眼で見た初めてだったような気がする。


初めて槍に登ったのはまだ弟と共に山行していた時期で、確か小屋がけで登ろうということになり、燕→大天井岳→(喜作新道)→西岳→槍ヶ岳→槍沢→上高地というルート、表銀座とよばれる北アルプスの王道である。時期は8月の終わりで、学校が始業する直前だった。下界は残暑だとか熱帯夜だとか言っている季節だったが、山上はもう秋の佇まい。草紅葉などが始まっていた。時期的に大糸線穂高駅でバスに乗ろうとしたが、もう運行されていない頃だった。それほど夏山シーズンを外れていたということか。
合戦尾根の登山口は有名な中房温泉であるが、我々が行ったら、オヤジが「登山客以外は泊めるな、観光客には帰ってもらえ」と叫んでいた。このご時世に、登山客優先とはビックリした(現在は違うかも)。出発が遅かったが、短い行程なので何とか着いて当時としては珍しかった生ビールを飲んだり、燕岳に散策に行ったりして過ごした。翌日、前半は快調に喜作新道注1)を進んだ。この道の凄いところは槍ヶ岳がスケールごと大きく見えてくる処だろう。元来、あれだけ目立つ山である。誰が見ても分かるあのピラミッド型が歩くたびに近づいて来るのだから、山をやるモノには堪らない。水俣乗越を越えた辺りから二人のペースがダウンし始めて、なかなか距離を稼げずに肩の小屋まで着かず、結局、ヒュッテ大槍に泊まることとなった。情けない話だが、無理は出来ない。一晩休むと体力も回復し快晴の中、槍の穂先に向かう。穂先の最後の部分は登りルートと下りルートと分かれていて、渋滞を避けようとしているのだが、普通はいつも渋滞している。頂上は思ったより広く、祠が祀られ元々信仰の山から出発したこと注2)を思い起こさせる。360°の展望。北アルプスの中心からコンパスを広げて好きな図形が書けそうである。空気が一瞬、止まったように感じた。ずいぶん穂先でぼんやりしていたような気がする。あまり長居は出来ないはずなので、時間的には何分、何十分の範囲だろうに。
帰路、例によってまたバテて横尾か徳沢で一泊しているはずだが、どうも思い出せない。この頃は交通機関をバス・電車に頼っていたので、自由がきかず、温泉にも入れずに汚いまま新宿に向かったのだけは覚えている。これ以後、全部で3回ほど登る機会に恵まれたが、穂高と違いルートは全て異なる。槍が北アルプスのcrossroadなので、さもありなん。出来ることなら今度は飛騨側から登ってみたいモノである。


よく遠くの頂を見て「あれは何ていう山だ」と考える。岳人共通のあこがれの中心が槍ヶ岳だ。ところが、その中心=槍からはさらに中心(槍)が見える範囲の山をすべて登ってみたい、と感じたのだった。中心にいるということはそういうことのようだ。                                                         (写真は大喰岳辺りからみた槍ヶ岳)


注1)喜作新道については山本茂実『喜作新道−ある北アルプス哀史』(朝日文庫)を参照のこと。

注2)これに関しては新田次郎槍ヶ岳開山』(文春文庫)が面白い。