take-bow2006-08-13

映画版「ゲド戦記」を見終わってからもう一週間も経つのですが、原作とのあまりの違いや創造性についてどう評価すべきか戸惑っています。正直言って、よく原作者この内容でOKしたなぁ、というのが率直な感想です。以下、思いつくままに「違和感」を記してみます(ネタばれになりますので、注意して下さい)。


1.アレンが父王を刺してしまうこと。
原作と大きく異なる創作というだけでなく、理由が死=生への恐怖という「影」をここで使うとは、1巻の内容まで欲張って取り込もうとしていると思えてならない。しかもその映像的な処理が、内容的なレベルにまで達しているとは言い難い。

2.3〜5巻をダイジェストしたような構成。
小器用にうまく「構成」しているように見えるが、テルーが少年時代のアレンと同世代という矛盾など、無理がありすぎる。つまりダイジェストすら為されているとは言い難い。詰め込みすぎ。

3.ゲドを含め、登場人物が雄弁な点。
テーマをストレートに「言う」「主張する」のは原作の意図に反していないか。あたかも『もののけ姫』を彷彿させる(それほどの映像表現ではないが)。原作が表現している、口に出して表現することと真の理解の間の問題が、何も顧みられず「自分が正しいのだ」と主張しているように思えてならない。

4.地域的な広がりの無さ。
TALES of EARTHSEAと題してながら、アースシー世界を一つの島だけにしたような奥行きの無さ。原作の多島海(アーキベラゴ)や地図のイメージ、「竜の道」は、どこに行ったのでしょうか。
5.原作の重要な点の説明不足について。
安易に真の名前を明かし過ぎる。魔法使いクモがアレンを操ることができる理由やアースシー世界での魔法のあり方についてスルーしている。その上で、目に見える形の悪としてクモの存在をクローズアップしている(この点は原作の通りの映画化は厳しいか)。人と竜の関係についても説明不足なのに、いきなりテルー→テハヌー→竜って変化について行けたのだろうか、観客は。


感想の結論
これはいわゆるファンタジーの傑作とされる『ゲド戦記』とは、別のモノの映画版「ゲド戦記」として見るべきです。さらに内容を精選して、シナリオをもっと錬れば映画としての表現にたえられる作品になっていただろうと思います(余談だが、宮崎吾朗監督の作詞力は素晴らしい)。いずれにしろ原作を読まずに見ていれば、内容的に(別モノとして)もう少し楽しめただろうと感じました。